狩野 永納(かのう えいのう、寛永8年(1631年) - 元禄10年3月7日(1697年4月27日))は、江戸時代前期の狩野派の絵師。諱は吉信、通称は縫殿助。字を伯受、別号に山静、一陽斎、梅岳、素絢軒など。

経歴

狩野山雪の長子として京都に生まれ、幼少より父から狩野派の画法を学んだ。慶安4年(1651年)3月21歳の時に父山雪が亡くなると、直ちに家督を継いで、父と同じ「縫殿助」を称すようになる。「縫殿助」は百官名であるが、山雪の代から京狩野歴代当主が名乗るようになった。「永納」の名も家督相続時には明らかに用いており、頭の「永」字は家系の曽祖父木村永光、或いは画系の曽祖父にあたる狩野永徳、更に遡れば狩野元信が剃髪後に称した「永仙」の一字である。狩野山楽・山雪の「山」字ではなく、狩野派にとって由緒ある「永」字を冠することで、家系と画系への帰属意識を標榜し、以後京狩野は名前に「永」字を冠することになった。ただし、「山」字も捨てたわけではなく、永納が「山静」の別号を名乗ったように、後の画人も号に山の字を付けるのを慣わしとしている。

承応2年(1653年)6月に禁裏が炎上してしまったため、翌年から明暦元年(1655年)にかけての再建工事では、狩野探幽、海北友雪、土佐光起らに混じり参加、「外様番所十二条敷」に「竹図」、「長橋上段之次」に「軍鳩図」を描いている(『禁中御絵画工記』)。次の寛文3年(1663年)の造営でも内侍所「南御座敷」に「松鷹図」を描いた。更に延宝度(3年(1675年))の造営でも、中心となった狩野安信らと共に加わっている。しかし、これらの作品は現在全く遺されていない。

貞享元年(1684年)6月下旬頃、長子の狩野永敬に家督を譲り剃髪する。学究肌で絵を描く傍ら古画の研究にも励み鑑定に精通した。没後は泉涌寺裏山に山楽・山雪と共に葬られた。

作品

著書

  • 「本朝画史」(全5巻)、1693年(元禄6年)刊 - 日本最初の画家列伝の編纂を企画した父の遺稿を1678年(延宝6年)に引継ぎ、黒川道祐の援助で完成させたもので、現在でも日本美術史研究の上で重要な基礎資料となっている。

脚注

参考文献

書籍
  • 土居次義 『近世日本絵画の研究』 美術出版社、1970年
  • 『朝日 日本歴史人物事典』 朝日新聞社、1994年10月 ISBN 978-4-0234-0052-8
  • 脇坂淳 『京狩野の研究』 中央公論美術出版、2011年1月 ISBN 978-4-8055-0639-4
  • 五十嵐公一 『京狩野三代の生き残り物語 山楽・山雪・永納と九条幸家』 吉川弘文館、2012年12月、ISBN 978-4-642-07914-3
論文
  • 榊原悟「一変狩野氏 ─江戸初期狩野派をめぐって─」『古美術』96号、1990年10月
  • 五十嵐公一 「狩野永納『本朝画史』の研究」東京大学文学部大学院人文社会系研究科、2007年度博士論文
展覧会図録
  • 奈良県立美術館編集・発行 『京都府立総合資料館・敦賀市立博物館・大和文華館所蔵作品と館蔵品・寄託品による 特別陳列 江戸時代 上方絵画の底ぢから』 2007年4月14日
  • 兵庫県立歴史博物館編集 『狩野永納─その多彩なる画業─』 1999年7月17日

関連項目

  • 京狩野



古美術青華堂|D807 掛軸・狩野永納筆・人物山水図

狩野永納 木下静涯 公式サイト

狩野永納|静岡県立美術館 全所蔵作品

雪舟伝説―「画聖」の誕生― レポート アイエム[インターネットミュージアム]

本朝画史. 巻第15 / 狩野永納 撰